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尖閣諸島加熱する主張「この事実に耐えられますか?」
●近代以前
尖閣諸島とは、東シナ海に点在する五つの島と三つの岩礁を指す。いずれも沖縄県石垣市に含まれ、最も大きい魚釣島の面積は約3.8平方キロメートル。諸島すべてを合わせても5.5平方キロメートルほどの、小さな無人島の集まりだ。
石垣市によると、「尖閣」という名称は1900年に沖縄県師範学校の教諭が考え、命名されたという。尖った岩が多いことに由来するとみられる。
日本政府が尖閣諸島を領土に編入するかどうかの調査を始めるきっかけになったのは、福岡県の実業家、古賀辰四郎氏が1885年に沖縄県令へ申し出た久場島の開拓許可だ。
古賀氏は前年に魚釣島などを探検・調査し、アホウドリの羽毛や、魚介類の採取で商機があると判断していた。
少なくともこの時点までは、尖閣諸島は「誰にも所有されていない『無主の地』だった」というのが日本政府の考え方だ。
一方、中国政府は現在、「中国人が最も早く釣魚島(魚釣島の中国名)を発見し、命名、利用した」と主張。島名が初めて文献に登場するのは、
明時代の1403年に書かれた航海案内書「順風相送」だというのが、根拠の一つだ。魚釣島が「釣魚嶼」と称されていた。
ほかにも、「籌海(ちゅうかい)図編」(1561年ごろ)の図で魚釣島を明の防御地区に組み入れている▽琉球の正史「中山世鑑」(1650年)で「久米島は琉球の領土だが、
赤嶼(日本名・大正島)及びそれ以西は琉球の領土ではない」としている――などと列挙。「中国の領土の一部だ」としている。
ただ、中国では王朝ごとに勢力範囲が変わった。村井友秀・防衛大教授(国際紛争論)は「中国にとって『国』とは中華文明の光が及ぶ範囲で、勢力によって国境は拡大、縮小してきた。
『固有の領土』という概念自体、存在しない」という。
日本政府は、中国側が挙げる資料はどれも島々が発見、認知されていたことを表すだけで、中国が実効支配していたことを示すものでないという立場だ。
「尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る、国際法上での有効な論拠とは言えない」(外務省)と主張する。
明治時代
日本政府は1895年1月、尖閣諸島を領土に編入することを閣議決定した。
85年から慎重に調査し、どの国の支配も及んでいない土地(無主地)だと確認したうえでの決定で、
「国際法上で領有権取得が認められる『先占』という方法に合致する」との立場だ。
尖閣の領土編入は、日本が勝利した日清戦争の時期と重なる。
中国側にとっては、中国の土地が戦争の混乱の中でかすめとられたと映る。
明治30年代の尖閣列島、魚釣島の船着場。岩礁を掘り下げて作られた
中国がその根拠とみるのは、85年の日本政府の文書だ。
1通は、沖縄県令が山県有朋内務卿に宛てた書簡。沖縄県と清の福州の間にある無人島を調べた結果として「(中国の文献にある)釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないと言い切れないので、指示を仰ぎたい」とした。
もう1通は、この結果を受け、井上馨外務卿が山県内務卿へ送った書簡。清の新聞が自国の島を日本が占領するかもしれないと報じたことを挙げ、
「清の政府や民衆が日本に猜疑心(さいぎしん)を抱いている時に久場島、魚釣島などに国標を建てるのはいたずらに不安をあおる」と指摘。国標を建てたり、
開拓に着手したりするのは「他日の機会に譲るべきだ」としている。
その後、沖縄県が90年、93年の2度、「無人島なので国の標杭を建ててほしい」と要望したが、政府は返答しなかった。
しかし、日清戦争の勝利がほぼ確実となった94年12月になると対応が変わる。野村靖内相が陸奥宗光外相に「昔とは情勢が異なる」と日本領編入の閣議決定を求め、翌月に実現した。
中国はこうした経緯から、日本が日清戦争に紛れてひそかに盗み取り、下関条約の締結によって台湾の「付属島嶼(とうしょ)」として正式に日本へ譲り渡された、と主張する。
これに対し、日本政府は「書簡は、当時清国に尖閣諸島が属さないということを前提にして我が国がいかに丁寧、慎重に領土編入の手続きを進めたかを示すもの」(玄葉光一郎外相)だと反論。
当時、日本が清の領有権を認識していたということは、「この文書からはまったく読み取れない」との見解だ。
編入翌年の1896年、政府は魚釣島、久場島、北小島、南小島の4島を30年間、無料で古賀氏に貸与すると決定。
石垣市によると、その後は有料貸与に変わったが、古賀氏は羽毛の採取事業などを続け、1909年には尖閣諸島の人口は248人に達した。
外務省によると、この間、日本の実効支配に対し、どの国からも抗議はなかった。
終戦後
1945年8月、日本はポツダム宣言の受諾を決め、敗戦した。宣言では、
日本が「盗取」した満州(中国東北部)、台湾、澎湖島などを「中華民国に返還する」とした、43年のカイロ宣言の履行を求めた。
中国政府は、カイロ宣言とポツダム宣言などに基づき、尖閣諸島は中国に返還されたと主張する。
一方、日本政府は「領土の処理はポツダム宣言などの政治文書でなく、最終的には平和条約をはじめとする国際約束で行われた」(外務省)との立場だ。
国際約束とは、1951年、日本が米国など48カ国と結んだサンフランシスコ講和条約を指す。条約では日本が台湾、澎湖諸島を放棄するほか、
尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島」などは米国の施政下に置くことを定めた。
戦後、中国では大きな変化が起きた。沖縄の領有に強い関心を示していた?介石総統が率いる国民党は共産党との内戦に敗れ、
49年に台湾に逃亡。大陸では共産党の毛沢東主席が中華人民共和国の建国を宣言し、台湾の中華民国と分断された。共産党側は「沖縄は日本の一部」という立場をとっていた。
共産党機関紙の人民日報は53年1月、琉球諸島は尖閣諸島を含む7組の島々からなると記載。58年に中国で発行された世界地図集でも、
尖閣諸島を沖縄に属するものとして扱った。
日本外務省は、尖閣諸島が米国の施政下に置かれた際も中国は「何ら異議を唱えなかった」とし、
「従来、日本の領土であることが当然の前提とされていたことの証左だ」とみる。米国は施政権を行使し、大正島、久場島を軍の射爆撃場に使ったが、
これにも中国は抗議していない。
尖閣諸島のなかで最も沖縄本島寄りにある大正島(赤尾嶼)。
最も高いところが82メートル、面積4ヘクタールの長く切り立った岩場の島は、
米軍の射爆場だった。断がいには今も砲弾の跡があちらこちらに残る。
島影が艦船に見立てやすいことも理由だった=2001年4月、朝日新聞社ヘリから
ただ中国政府は現在、「一貫して領有権を主張していた」と強調する。
「サンフランシスコ講和条約は当時から承認していなかった」「58年の領海に関する声明で、台湾とその周辺諸島は中国に属すると宣言した」と説明している。
中国、台湾が尖閣諸島の領有権を公式に主張し始めたのは、1971年に入ってからだ。同年6月17日に日米が署名した沖縄返還協定で、
日本に施政権が返還される地域に尖閣諸島が含まれたことが背景にある。
台湾外交部(外務省)は6月11日、尖閣諸島の日本移管に抗議する声明を発表。
中国も半年後の12月30日、外務省声明を出し、
「釣魚島などの島々は台湾の付属島嶼で、
台湾と同じように中国の領土の不可分の一部」とし、
尖閣の日本移管を「全く不法」だとした。
また、この時期に中国や台湾が領有権の主張を始めた別の理由として、
「石油資源が目当てだった」との見方も日本側には根強い。
国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は69年の報告書で、
前年に日本と台湾、韓国の専門家らが実施した学術調査の結果、
東シナ海に石油資源が埋蔵されている可能性を指摘した。
「これをきっかけに中国や台湾の領有権の主張が始まった」と日本政府はみる。
一方、尖閣周辺には台湾の漁民が頻繁に漁に訪れていた。
1921年に台湾銀行がまとめた「台湾之水産業」によると、
16年には赤尾嶼(大正島)付近に出漁し、その後漁場が拡大したという。
台湾はいまも、尖閣諸島を「釣魚台列嶼」と呼び、領有権を主張している。
米の「あいまい戦略」が残した火種
サンフランシスコ講和条約にのっとり、尖閣諸島は沖縄県の一部として米国の統治下におかれた。だが、条約は最終的な帰属先を示していない。
領土問題に詳しいカナダのウォータールー大学の原貴美恵教授によると、
条約の初期の草案には小笠原諸島や沖縄も日本に放棄させると明記していた。
ところが最終版は、日本の主権を放棄させるものでも、
主権を確認するものでもなくなった。
原氏は、冷戦の開始がこの変化の一因だと分析。
「反米陣営に染まりかねない近隣国と日本の間に領土問題という将来の係争の種を残し、
米国が日本に足場を残し続ける構造を築いた」と指摘する。
沖縄の施政権が日本に戻った後も、尖閣諸島について米国は
「主権問題に関しては立場を表明しない」という態度。
日中間で今も続く問題の背景に「アメリカの戦略的あいまい性」があったとみている